昔から特別信心深いわけではない。
神道や仏教の宗派の知識があるわけでもない。
ただまぁ、なんとなく年が明けたら、初詣には行く。受験の際には合格祈願で参拝し、絵馬を書いたたこともある。なんとなく神社で神水を口に含んでみたり。お焚きあげの煙を自分にかけてみたり。昨年は厄払いで初めて祈祷を経験した。
寺社仏閣巡りも好きだし、神聖な雰囲気も好きで御朱印帳も持っていたりする。
特別な信仰はないけれど、今日は、なんとなく、回り道をしてお寺に立ち寄ってみたくなった。大きなお寺であるが、仕事帰りの時間で、日は落ちて人もまばら。
最近は、自分の力でどうにもならない仕事の問題ばかり。
家族には、世間一般には重病と認識されている病が見つかり。
お気楽な気分で過ごせる時間、癒しの時間がめっきり少なくなってしまった。
不安定ではないが、不安は尽きない。迷いは尽きない。
吾 十有五にして学に志し 三十にして立ち 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳順い 七十にして 心の欲する所に従いて矩 を踰えず
昔の偉い方はこう仰ったそうな。「不惑」の境地なんて程遠い。これを乗り越えていけばその域に達することができるということなんでしょうか?
もはや考えることを止めれば迷うことも悩むこともなくなり、ある意味そういう境地に達するのかも?と思うことがある。
でもきっと違うんだろうな。
お寺の参道の最後の石段を登り寺社仏閣の独特の雰囲気を感じながら、少し考える。
ふと、先輩が昔話していたのを思い出す。
「本当に不思議なんだ。厄年っていうのは本当にあるんだよ。必ずなにかあるんだよ。だけど、それを乗り越えると変わるから。」
その先輩は事故・御家族の不幸と重なった。最近は、その先輩は、動じることがない。まぁ、昔から、頼りがいのある先輩ではあったが、何かを悟ったような感じさえ受ける。
結局は、受け入れて、できることをやるしかないんだろう。結果はわからないが、とにかくできることをやって、前に進んで乗り越えた先にきっと「不惑」の域に達することができるんだろう。
お礼にお賽銭を少し入れて、石段を下りた。
気休めに、今度の休日、さっきのむずかし~い言葉を残した方の本でも読んでみようか。